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「学力」の経済学 中室牧子

「学力」の経済学 中室牧子

「データ」に基づき教育を経済学的な手法で分析する教育経済学は、「成功する教育・子育て」についてさまざまな貴重な知見を積み上げてきた。そしてその知見は、「教育評論家」や「子育てに成功した親」が個人の経験から述べる主観的な意見よりも、よっぽど価値がある―むしろ、「知っておかないともったいないこと」ですらあるだろう。
本書は、「ゲームが子どもに与える影響」から「少人数学級の効果」まで、今まで「思い込み」で語られてきた教育の効果を、科学的根拠から解き明かした画期的な一冊である。

教育とはなんだろう?教育の可能性とは?
あたり、ちょうど関心がある分野なので、興味深く読むことができました。

教育経済学は、教育を経済学の理論や手法を用いて分析することを目的としている応用経済学の一分野です。そして、私が、教育や子育てを議論するときに絶対的な信頼を置いているもの、それが「データ」です。 大規模なデータを用いて、教育を経済学的に分析することを生業としている私には、子育て中のご両親や学校の先生にわからないことがわかるときがあります

・ご褒美で釣っても「よい」
・ほめ育てはしては「いけない」
・ゲームをしても「暴力的にはならない」

祖母が亡くなる確率は、中間試験の前で通常の10倍、期末試験の前には19倍になり、さらに成績が芳しくない学生の祖母が亡くなる確率は50倍にも上ることが示されたのです

まず長生きしているだけの老人に長寿の秘訣を聞きに行く人はいないのに、子どもの成績に悩む親が、子どもを全員東大に入れた老婆の体験記を買う、という現象が起こるのは奇妙な事態だとは思わないだろうか」(中略)子育てに成功したお母さんの話を聞きたい」という欲求自体に問題があるわけではありません。しかし、どこかの誰かが子育てに成功したからといって、同じことをしたら自分の子どもも同じように成功するという保証は、どこにもありません

ご褒美は、「テストの点数」などのアウトプットではなく、「本を読む」「宿題をする」などのインプットに対して与えるべきだということです。

心理学の手法を用いて内的インセンティブを計測したところ、ご褒美の対象となった子どもたち(=処置群)と、対象にならなかった子どもたち(=対照群)の内的インセンティブには統計的に有意な差が観察されませんでした。すなわち、ご褒美が子どもの「一生懸命勉強するのが楽しい」という気持ちを失わせてはいなかったのです。(中略)
ご褒美にお金を得た子どもたちは、お金を無駄遣いするどころか、きちんと貯蓄をし、娯楽や衣服、食べものに対して使うお金を減らすなど、より堅実なお金の使い方をしていたことが明らかになりました。この実験では、ご褒美と一緒に、貯蓄用の銀行口座を作ったり、家計簿をつけるなどの金融教育が同時に行われていたこともその一因だと考えられます。 お金というご褒美を頭ごなしに否定するのではなく、金融教育も同時に行えば、子どもたちは、お金の価値に加えて、貯蓄することの大切さまでも学んでくれるのです

子どもをほめるときには、「あなたはやればできるのよ」ではなく、「今日は1時間も勉強できたんだね」「今月は遅刻や欠席が一度もなかったね」と具体的に子どもが達成した内容を挙げることが重要です。そうすることによって、さらなる努力を引き出し、難しいことでも挑戦しようとする子どもに育つ

17歳以上の子どもが対象になるようなロールプレイングなどの複雑なゲームは、子どものストレス発散につながり、創造性や忍耐力を培うのにむしろよい影響があるとさえ述べています。ゲームの中で暴力的な行為が行われていたとしても、それを学校や隣近所でやってやろうと考えるほど、子どもは愚かではないのです。

父母ともに「勉強するように言う」のはあまり効果がありません。むしろ、母親が娘に対して「勉強するように言う」のは逆効果になっています。 「勉強するように言う」のは親としても簡単なのですが、この声かけの効果は低く、ときには逆効果になります。エネルギーの無駄遣いなので、やめたほうがよいでしょう。 逆に、「勉強を見ている」または「勉強する時間を決めて守らせている」という、親が自分の時間を何らかの形で犠牲にせざるを得ないような手間暇のかかるかかわりというのは、かなり効果が高いことも明らかになりました。

祖父母や兄姉、あるいは親戚などの「その他の同居者」が、子どもの横について勉強を見たり、勉強する時間を決めて守らせていても、親とあまり変わらない効果が見込めることがわかっているのです

人的資本への投資はとにかく子どもが小さいうちに行うべきだということを示しています。   ただし、ここで「明日からでもわが子を学習塾に通わせよう」と考えるのは拙速です。「教育」と限定せずに「人的資本」への投資、という言い方をしたのには理由があります。 人的資本とは、人間が持つ知識や技能の総称ですから、人的資本への投資には、しつけなどの人格形成や、体力や健康などへの支出も含みます。必ずしも勉強に対するものだけではないのです

非認知能力は、認知能力の形成にも一役買っているだけでなく、将来の年収、学歴や就業形態などの労働市場における成果にも大きく影響することが明らかになってきたのです

親が幼少期のしつけをきちんと行い、基本的なモラルを身につけさせるということは、勤勉性という非認知能力を培うための重要なプロセスなのです。そして、このしつけによって育まれた勤勉性が、平均的な年収の差につながったのだと考えられます

少人数学級は学力を上昇させる因果効果はあるものの、他の政策と比較すると費用対効果は低い政策であることもまた明らかになっているからです

「教育を受けることの経済的な価値」というと、難しい言葉のように聞こえますが、私はいつも次のように説明しています。 「高校を卒業後すぐに働き始めた人と、大学を卒業してから働き始めた人の間では、生涯で稼げるお金に、実に1億円の差があります。1億円を年末ジャンボ宝くじで当てようとすれば、その確率は1000万分の1です。交通事故で亡くなる確率が1万分の1、飛行機で事故にあう確率が20万分の1といわれている中、これは、ほとんど不可能といってよいレベルでしょう。しかし、宝くじで1億円が当たることを夢見なくても、大学へ行けば生涯で稼げるお金は1億円高くなるのですよ」

これまで日本で実施されてきた「少人数学級」や「子ども手当」は、学力を上げるという政策目標について、費用対効果が低いか効果がないということが、海外のデータを用いた政策評価の中で既に明らかになっている政策であることです

中学3年生時点の子どもの学力の35%は遺伝によって説明できることが、明らかになっています。(中略)
「どういう学校に行っているか」と同じくらい、「どういう親のもとに生まれ、育てられたか」ということが学力に与える影響は大きいのです

私たちが期待しているほどに、学校の資源は生徒の学力に影響を及ぼしてはいないかもしれません。そうだとすれば、学力テストの県別順位は、単に子どもの家庭の資源の県別順位を表しているにすぎない可能性もあるのです

学力には、家庭の資源と学校の資源の両方が影響を与えており、そして家庭の資源の影響はかなり大きい―このことを正しく理解せずに、学力テストの結果を学校名とだけ紐づけると、本来学校や教員が負うべきでない責任を、彼らの責任にしてしまいます。これでは、正しく学校や教員にプレッシャーをかけ、学校間や教員間での健全な競争をもたらすことにはなりません。むしろ、有害である可能性すらあります

もしも順位を公表するなら、学校名だけでなく、その学区の生活保護率、就学援助率、学習塾等事業者の数や売り上げなど、家庭の資源を表す情報も紐づけて公表すべきです。そうすれば、学力が学校の資源だけで決まっていないことは一目瞭然ですし、「子どもの学力を上昇させるためには、学校だけでなく、保護者や地域が力を合わせて取り組んでいかなければならない」というメッセージを発信することにもつながるでしょう

学校で平等を重視した教育―「手をつないでゴールしましょう」という方針の運動会など―の影響を受けた人は、他人を思いやり、親切にし合おうという気持ちに「欠ける」大人になってしまうことが明らかになっています。 (中略) 平等主義的な教育は、「人間が生まれながらに持つ能力には差がない」という考え方が基礎となっています。ですから、努力次第で全員がよい成績を取れると考えるわけです。 しかし、残念ながら、現実にはそうではありません。子どもの学力には、遺伝や家庭の資源など、子ども自身にはどうしようもないような要因が大きく影響しています。しかし、平等主義的な教育のもとでは、こうした現実にはあまり目が向けられることはありませんでした。 この結果、子どもは、本人が努力しさえすれば教育によって成功を得られる、別の言い方をすれば、成功しないのは、努力をせずに怠けているからだと考えるようになってしまい、不利な環境におかれている他人を思いやることのないイヤなタイプの人間を多く育ててしまっているのです

南アフリカは、労働力調査や家計調査などの政府統計の個票データをインターネット上で世界中のすべての人に公開しています。この理由について尋ねたところ、「データを開示すれば、政府がわざわざ雇用しなくても、世界中の優秀なエコノミストがこぞって分析をしてくれる」という答えが返ってきました

遺伝や家庭の資源など、子ども自身にどうしようもないような問題を解決できるポテンシャルを持つのは、「教員」だということです

「教員免許を持っているかどうかが子どもの学力に与える影響は非常に小さいのにもかかわらず、教員免許を持っている教員同士の質の差はかなり大きい

「豊田章男が愛したテストドライバー」稲泉連

「豊田章男が愛したテストドライバー」稲泉連

なんと5年ぶりのブログ更新。

やっぱり書評をつけないと、良かった本も流れていってしまう気がするので、印象に残った本は記録していきたいと思います。

第一弾はこちら。

この男なくしてトヨタ再生は語れない!

社長就任発表後、試練の嵐は吹き荒れた。
59年ぶりの赤字転落。レクサス暴走事故を巡って米公聴会出席。東日本大震災の対応にも追われた。  

“どん底”の豊田章男を支えたのは、開発中の事故でこの世を去ったテストドライバー・成瀬弘の言葉だった。
「人を鍛え、クルマを鍛えよ」

育ちも立場も世代もまるで異なる
師弟が紡いた巨大企業再生の物語――。

これは世界最大の自動車メーカーの開発の現場に立ち続けたテストドライバーと、その後ろ姿を追い、今は社長の座に就いた男が、長年にわたって築き上げた師弟の物語である

自分たちの作っているモノを、なるべく現場の近くで見ることの大切さはもちろん、何より好きであることが大事なんだと感じました。
そして、好きであるためには学ばないといけない。

本書の中にも、豊田さんが、成瀬さんとともに、スープラで練習を繰り返す姿が描かれています。

この本を、ブログ再開の1発目に持ってきたのは、僕も、もっともっと動き続けるインターネットの世界の中で、新しいことを知るための努力をしないといけないなと思ったからでした。

そういえば5年で読書環境もすっかり変わりました。
紙の書籍を読む機会は激減して、メインはkindleになりました。

kindleのハイライト機能はとても便利で、印象に残ったところをハイライトしておくと、Webからも取り出せるので、ブログで抜粋が簡単になりますね。

昔は、本当に印象に残ったところを、紙の一節を見ながらテキストに起こしていたもので、そうすることで頭に入るという効果もあったので、善し悪しという面もあるのかもしれません。

「大事なのは、クルマに乗って『ああ、これにもう一度乗りたい』と思ってもらえるかどうかなんです。例えばあそこのレストランが美味いと言うとき、『ソースが美味いから一万円払うんだ』という人はいないでしょう。あれがいい、ここがいい、と言われているうちはまだダメ。乗ってみて『ああ、これはいいね』と言われるのが一番いい。『このクルマはロール(曲がる際の車体の傾き)が少なくていいね』だったら町工場にいけばすむ。このクルマは面白い、このクルマはすごい、と言われるものをメーカーはつくらないといけない」

今のクルマ、気持ち良くないから、買い換えたいなあ・・・

一九九一年のトヨタの販売台数は、累計四百八十万のうちの二百五十万台が国内でのものだった。それが二十五年のときが経過したいま、約一千万台のうち国内での台数は約百五十五万台である。国内の社員数は約七万人だが、グローバル・トヨタでのその数は連結で三十三万人を超えてさらに増え続けている。  二〇〇二年四月に発表された「グローバルビジョン二〇一〇」では、二〇一〇年代の世界シェア一五パーセントという具体的な目標が掲げられ、海外生産への取り組みが一段と加速した。フランス、中国、チェコ、アメリカと新工場が次々に稼働し、五年後には二十七の国と地域で五十三もの事業を展開するに至った。海外を中心に年平均で約五十万台というペースで成長を続けたトヨタは、二十万台規模の工場を毎年二、三か所で新設していった。

不勉強ですが、トヨタが、これほど急なペースで膨張していたイメージがなかったので、意外でした。

数値目標に振れ過ぎていた振り子を、社長は真ん中に戻そうとした。そのためには反対側の強いメッセージを出さないと振り子は戻っていかないので、かなり強い言葉でそれを言い続けてきた。ただ、そのメッセージはそう簡単には伝わらないものでした

公聴会が終わった夜、豊田はCNNのトークショー「ラリー・キング・ライブ」に出演した。司会者のラリー・キングからの辛辣な質問に答えた彼は、最後に「どのクルマが最も好きか」という質問を受けた。  豊田は言った。 「私は年に約二百台のクルマに乗っている。クルマが大好きですから」と。  一連の品質問題による大規模なトヨタバッシングが収まり始めたのは、そのインタビューの後だったという実感が彼にはある。全米の視聴者に対してトヨタ自動車の社長が会社経営ばかりに興味を持つ人物ではなく、クルマそのものを愛する男だということを印象付けたからだ

「クルマをつくっていく上では、タイヤをいかにうまく使うかが何より大事なんだ。まずタイヤが決まって、そこからクルマをつくっていくんだ」

「クルマを開発するには設計図を描いて組み立てるだけではダメだ。レースカーはレースの度に、コースに合ったセッティングに変えるだろう? 一般車も全く同じだ。いくらエンジニアが図面の通りに組み立てたところで、路面に合っていないクルマはいいクルマとは言えない。世界にはいろいろな道がある。その道に合うクルマを開発しなければならない」  つまり、「クルマは道がつくる」と彼は言っているのである

いいクルマをつくるのは人なんです。つまり、僕がしなければならないのは、人を作ることなんだ。そこに部署は関係ない。いいクルマづくりというのは開発や生産技術だけではなく、アフターサービスでも貢献できるし、営業でも販売でも広報でも、クルマとは関係ありませんと言える部署はどこにもない。どんな立場にいても、いいクルマをつくることにかかわることはできる。だって僕らがやっているのは自動車会社なんだから

会社の成り立ちからして豊田佐吉が「上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし」と豊田綱領に掲げ、喜一郎が「この国に自動車産業を興す」ことを目的としたメーカーがトヨタであり、LFAのようなスーパーカーの開発が簡単には受け入れられないことを身に染みて理解していた。  トヨタにはカローラやハイエースがあれば、ミニバンやトラックもある。それらの大衆車が会社を支えているのであって、金食い虫のスポーツカーの開発などする必要はない。そんな声はいまも昔も根強い。 「うちの会社はスポーツカーやスポーティなクルマを出すには出すんだけれど、純然たるクルマ好きがつくるクルマというよりは、商売の論理がどうしても入ってくる。そこは成瀬さんもフラストレーションを感じていたところでしょう。彼がニュルで鍛えたスープラなんかもそうでした。法律で排ガス規制が厳しくなると、何らかの対策を打たないと新型が出せない。すると、そのタイミングですぐに『それだけの価値があるのか、こんなわずかな台数に』というリソーセス議論にさらされてしまう。  そうすると勝ち目がないんです。売れないじゃないか、台数は小さなものじゃないか、と言われちゃうとね。それは会社の性格上、仕方のない面もあると僕は思ってきた。トヨタは本田宗一郎やエンツォ・フェラーリが作った会社とは違う。だから、この会社でスポーツカーを出すには、そこを乗り越えるために何が必要かを考えなければならない

「トヨタ自動車という会社は、新興国には生活の足になるクルマを提供する会社です。そして、地球環境についてはプリウスのようなハイブリッド技術がある。私たちは環境分野ではトップランナーだと胸を張れる技術を持っているわけです。しかし、トヨタには欠けているものがある。それがクルマ好きの人たちに対して、純粋な夢や憧れを喚起するような商品です。このクルマは、そうした人たちに向けての大きなメッセージになるはずです

「成瀬さんはいつも言っていました。LFAがカーボン・ボディになって本格的な開発ができるようになったとき、自分たちを取り巻くニュルの雰囲気が変わった、と。例えば、僕らがニュルパッケージでコースに入ると、みんなの視線が集まるのを感じるんです(飯田は二〇一一年、LFAで当時の市販車最速である七分一四秒六四というタイムを記録した)。それは『今回は何をやるんだ』という視線で、コースインするとポルシェだろうがベンツだろうが、僕の前をすっとどいてくれる。自動車会社というのは、こうやって尊敬を勝ち取っていくものなんだと実感した瞬間でした」  それはトヨタの歴史のなかで、初めてのことだと成瀬は言っていた

豊田は「最終的な決断でどれだけの人の顔を思い浮かべることができるか。それが経営者にとって重要な資質なんだ」という思いを強くしたと話す。 「工場をともにやってきた人たちがいる。そこにかかわる仕入れ先や関連会社がある。進むも地獄、引くも地獄。しかし、何もしないことは将来に痛みを押し付けるただの先延ばしに過ぎない。その痛みや悲しみを敢えていま背負いこんで、後に良かったと言ってもらえる仕事をすること。それが現役の役割なんだ

「結果をいまに求めない。次の世代が成果をとればいい。そんな思いで働けるのは創業家だけだ。それこそが豊田家が誇るべき伝統だ

「ラストソング」野沢尚

「ラストソング」野沢尚

博多のライブハウスで宿命的に三人は出会った。地元のスター修吉に挑みがかった一矢のギター。ロックが大嫌いだった倫子はリーダー修吉の彼女になり、夢を追い上京した彼らを支える…。持てる才能だけを信じ、一度きりの日々を懸命に疾走する者たち。

どうしても小説が読みたくなって、本屋をさまようこと1時間。
食指が伸びる本が見あたらず、苦し紛れで野沢尚の未読本を手に取ってみたら、コイツがまた良い本だったよおおおおお。
 
もうこんな風に破滅的なまでの突き進み方をする歳でもないのですが、こういう熱狂的というか狂騒的な雰囲気は今でも好きだし、求めているところがあります。
 
かといって仕事ではそんな熱に浮かされるようなやりかたをするわけにはいかないわけで、だからムチャクチャに無計画でちょっと危ない旅行とかしたくなるんだろうなぁ。。。
 
 
しかし「これ映画化したらいいのになー。俺ならキャストは・・・」なんて思いながら読んでたら、あとがきで気づきました。高校のときにちょっと流行った映画の原作だったのですね。
観てなかったのでわかりませんでした。
つーか、カラオケで歌ってた-。吉岡秀隆。in マイクドナルド(京橋のカラオケ屋)
野沢さんは「深紅」か「恋愛時代」が一番好きかもって思ってましたが、これもかなりキタ一冊でした。
いや~、まんぞくまんぞく。

「ダイナマイト・ツアーズ」原宏一

「ダイナマイト・ツアーズ」原宏一

桐野夏生の「東京島」を読んで、めっちゃ嫌な気分になっていたところ、面白い本に救われました。
 
 

雅也と麻由美の夫婦はろくに仕事もせず自堕落な日々を送っていた。ところが新婚旅行中に雅也の父が急逝し、悠々自適生活が急転落下、借金を背負うはめに! 土地を売るために自宅を爆破するも大失敗。大怪我を負いながらアメリカに逃亡した二人は、ビルの解体を専門とする爆破屋・ボブと出会う。すっかりその魅力にとりつかれた二人はボブに師事するが……。

  
 
や~。とにかく痛快です!
小難しいブンガクも良いのですが、ミステリーの雰囲気が漂っていない、こういう気楽なエンターテインメントは貴重ですね。初期の荻原浩的な。
ダイナマイト爆破の様子は映像にしたら面白そうです。
ってか映画化されるだろ。俺ならする。
 
  
  
  
もう桐野夏生は読まないよ。(`Д´)

「国境の南、太陽の西」村上春樹

「国境の南、太陽の西」村上春樹

バブル絶頂期(1988年 – 1989年頃)の東京が主な舞台。

僕は一人っ子と言う育ちに不完全な人間と言う自覚を持ちながら育つが成長と共にそれを克服しようとする。結婚、「ジャズを流す上品なバー」経営の成功などで裕福で安定した生活を手にするが「僕」の存在の意味を改めて考える。そんな時にかつて好きだった女性が現われて―。

先日初めて神戸空港に行きました。
雨でした。
人気の少ない神戸空港で、なぜかこの本を思い出して、帰ってから読み返しました。

雪の降りしきるあの小松空港のことを何度も何度も何度も思い出した。何度も繰り返して思い出しているうちに、その記憶が擦り切れてしまえばいいのにと思った。

もう、この本を読むのは4回目くらいかな。
僕にとってのハルキ小説最高傑作です。
なんて言ったら世のハルキストに (゚Д゚)ハァ? (´,_ゝ`)プッ って言われそうですが。
この小説には昔から妙に僕の中の何かを震えさせる力が潜んでいます。
別に一人っ子でもなければ、好きだった幼なじみと再会なんてこともないのだけど。
 
 
 
逆にこれからは、この本を読むたびに、雨の神戸空港も一緒に思い出すんだろうな。。。

「稲盛和夫の実学」

「稲盛和夫の実学」

常勤監査役として入っていただいてる方から読むようにと言ってもらって、久々に再読。
社会人になりたての時も「ふくだ君、読みたまえ」とウエ課長に言われ、手に取ったものでした。
8年ぶりに、またも手に取ることになるとは、なんとなく感慨深し。
内容としては、「実践的基本原則」として、
(1)「キャッシュフロー」をベースとした経営判断を行う「キャッシュフローベース経営の原則」。
(2)モノとカネとの対応を徹底づける「一対一対応の原則」
(3)贅肉をそぎ落とす「筋肉質の経営の原則」
(4)トップがカンペキを目指せば下も自ずと100%を目指すようになる「完璧主義の原則」
(5)ダブルチェックを徹底し不正を未然に防ぐ「ダブルチェックの原則」
(6)アメーバ組織によって実現する「採算向上の原則」
(7)投資家と社員に対する徹底したディスクロージャーによるフェアで公明正大な「ガラス張りの経営の原則」
など7 つの考え方が説明されています。
しかし根幹に流れているのは、序章で提示されている、常に「『常識』にとらわれず、物事の本質を追求し、人間として何が正しいかという観点で判断する。」ということです。
それがあれば、必ずしも会計の専門知識が無くても、意志決定に足る会計の数字は読めると、稲盛さんは説きます。
実際に、びっくりするようなところを疑ってかかります。
・売上が増大するからといって経費が増えるのは当たり前なのか?
 → 売上を増やしながら経費を減らす方法はないのか?
・実勢とズレている法定耐用年数で減価償却するのは当たり前なのか?
 → 法定のほうがながいと、前半で過小償却になり、正しい意志決定ができない
・儲かってればさらに借り入れして拡大スピードをあげるのは正しいのか?
 → 借り入れに依存してると、拡大時はいいけど、いざというときに大変
・売上目標から決まる予算は妥当なのか?
 → ほとんどの場合、経費だけを確実に達成し、売上が未達になるのでよろしくない。
などなど。
僕なんか、全く授業に出てなかったけど、なまじ経営学部でちょこちょこ囓っただけに、逆に常識にとらわれやすいのかもしれません。目から鱗。
 
 
「『常識』にとらわれず、物事の本質を追求し、人間として何が正しいかという観点で判断する。」ということは、今は簡単に思えます。
それは、たまたま大きく躓くことがなかったからなのでしょう。
これからは、色んな事情で「ちょこっと操作しちゃっても大丈夫」みたいな悪魔の囁きや、訳のわからない事業に突っ込みそうになるときがくるのかもしれません。
この本を読んでいれば、そうやって道を踏み外しかけたときに、本質を思い出させてくれそうです。
必ずまた読み直したいと思います。
やはり凡百の駄本を読み漁るよりも、こうした名著を適宜読み直した方が得るものは多いのかもしれません。
それはつまり、無理矢理かき集めて何度も合コンに行くよりも、これぞという人とおデートを繰り返した方が実りが多いということでしょうか。
いやいや、大切な気づきを、稲盛氏から得ることができました。あれ?

「失われた町」三崎亜記

「失われた町」三崎亜記

久しぶりの読書エントリ追加。
「となり町戦争」の三崎亜記さんの新刊を読みました。
  

30年に一度起こる町の「消滅」。忽然と「失われる」住民たち。喪失を抱えて「日常」を生きる残された人々の悲しみ、そして願いとは。大切な誰かを失った者。帰るべき場所を失った者。「消滅」によって人生を狂わされた人々が、運命に導かれるように「失われた町」月ケ瀬に集う。消滅を食い止めることはできるのか?悲しみを乗り越えることはできるのか?

面白かったー
 
町が消失するという設定も斬新なんだけど、それ以上に、その消失によって、大切な人と突然会えなくなったとしても、残された関係者は、決してそのことを悲しむことは許されていないという設定がイイ!(・∀・)
おかげで安易なお涙ちょうだい本になってないと思います。
  
 
むしろ自分と関係のない他者の痛みを、自分の問題と感じられるかどうかを問うているというか、さらにつっこんで、安直なボランティアイズムへのアンチテーゼを登場人物の視点を通じて提示してみたりと、なかなか奥が深かったです。
世界や国という大きな単位においても、会社のような小さな単位においても、消滅順化しちゃいかんよ。
内なる町を持たなきゃ。そんなことを突きつけられているように感じますた。
 
まあ、あまりにも村上春樹の稀代の名作、「世界の終わりと~」を感じさせてしまうし(やー、もしこちらを読んでないなら今すぐ書店に走ることをオススメします!)、構成がかなり荒っぽくて、話に無理を感じるところが端々に残るなど、完成度はそれほど高くないと思うのだけど、やっぱこの作家さん、イイと思います。うん。
でも直木賞はさすがにだめだったかぁ。
しかしまあ、こりゃ次作も期待ですわ!(・∀・)

「フラット化する世界」トーマス・フリードマン

「フラット化する世界」トーマス・フリードマン

最近読んだ本で面白かったのもあげてかなくっちゃ。
夏からたまりっぱなしです。
ということで、まずは1冊目。

ものすごくかいつまんでしまうと、インターネットなんかの情報通信の発展によって、今までだったら国内でのうのうとやってられたサービス業のような仕事も、地球の裏側にどんどんアウトソースされるようになっちゃってうかうかしてると失業しちゃうよ!みたいな話。
グローバリゼーションは、しんじられないスピードで進んでるんだよ!って。
そして「自分の仕事がアウトソーシング、デジタル化、オートメーション化されることがない人」になるにはどうすればいいのか。これからの先進国はどうしていくの!?
そんな話が上下2冊の結構なボリュームで書かれてますが、内容も面白いし訳も軽妙なので、楽しく読めます。
なんかいっぱい発売されてる矮小なweb2.0本よりも、視点が広いこっちの方が断然オススメ。
この本では冒頭からアメリカからITや税務がインドへアウトソースされる様が取りあげられているんだけど、これってたぶん日本語圏の人にはまだピンとこないかも。
製造業は別として、サービス業ではまだ言葉の壁がフラット化の防波堤となってる・・・はず。
コールセンターだって沖縄とか北海道が多くて、生活の中でも「お、外国の人?」なんてのに出くわしたことはありません。
とはいえ、この先、どーなることやら。
って考え出すときりがないのですが、まあそんなことをつれづれ考える良いきっかけになることは間違いないと思います。
ついインド投信を買ってしまいました。。。w

「のだめ」が面白すぎる件について

「のだめ」が面白すぎる件について

久々に、少女漫画などに、どっぷりハマってます。

のだめカンタービレ
もうヤフオクで全巻揃えちゃおうかって勢い。
面白すぎですよ。これは!!(・∀・)
もうすぐドラマ化されるらしいですが、たしかにドラマ化に向いてるかも。
 
 
話の筋としては、主人公の女の子「のだめ」こと野田恵は、音大のピアノ科に通う変人。
頭もろくに洗わないような汚いキャラで、部屋は常にゴミため状態。
対して隣に住む千秋真一は、有名ピアニストを父に持ち、天才的な音楽的才能を持ちながらも、飛行機恐怖症のために海外留学やコンクール出場もできず、国内でただ腐っている指揮者志望の超イケメン音大生。しかも金持ちで家事もうまい。(このあたりが少女漫画ですねー)
この二人を軸にした、若者たちの成長物語といった感じです。
ついつい応援しながら読んでしまうあたり、僕もオッサン化してるのかもしれません。
でもって「あー、ちゃんと楽器習ってたら良かったなぁ」と思ったり。
 
 
 
僕自身は音楽についての専門的な知識は全く無いのですが、姉がチェロをやってたこともあって、一時期どっぷりとクラシックを聴きまくってたこともあって、知ってる曲が多くて楽しめましたが、特にクラシックを知らなくてもハマるんじゃないかなーと思います。
まあ、とにかくギャグがツボります。
「動物のお医者さん」なんかでケタケタ笑ってた人は、まずハマるかと思います。
とりあえず僕はガハガハ声を出して笑ってしまうので、あまり人気のないところで読む必要ありです。
っつーわけで、のだめトークできる人募集中です(・ω・)ノ

「30代未婚男」

「30代未婚男」

急増する「30代未婚男」。彼らはなぜ結婚しないのか?「相手がいない」「お金がない」「自由な時間とお金が大事」「責任をとりたくない」「まだ、遊びたい」…。彼らの現実をインタビューしながら、30代の本音と未婚問題の構造を探る。

もうすぐ30代という時期に目の前に現れたので、ついつい手に取ってしまいました。

男性の生涯未婚率は、1980年には2.60%だったが、(中略)2000年には12.57%に達しているのである。1980年のだんかいでは、女性の未婚率のほうが4.45%と上回っていたのだが、(中略)2000年の女性は5.82%にとどまっている

ほぉほぉ。負け犬とか言うてますが、男の方が結婚しなくなっているのですね。
で、なんでやねんというのを分析しようと試みているのが本書。
まあ格差の拡大とか、オタク化とか、色々と理由は挙がってるんだけど、面白かったのは希望年齢のミスマッチという以下の部分。

実は男性は自分の年齢があがっても、相手の女性に求める年齢は上がらないのだ。(中略)男性は31歳を過ぎると年下の女性との結婚願望が強くなり、40歳を超えるとすくなくとも5歳以上若い女性と結婚したいと考えているという。(ところが)男性が7歳以上という夫婦は1割しかおらず、同年齢や年下の男性と結婚する女性が増えている。実は男性も女性同様に年齢が上であることが結婚相手という点ではマイナス評価であるのだが、未婚男性にはそれがよくわかっていない。

 
 
わはは。
いつまでも自分はいけるとおもって余裕こいてたら、すぐに君も賞味期限切れですよ!と言われてしまいました。
うん。確かに。(´・ω・`)